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銚子港に向かって車を走らせると、倉庫や工場などが密集した市街地から急に視界が開け、太平洋が見える。この景色に魅せられて何回も訪れている。この日も強風だったが、海から吹き抜ける風が心地よく感じられた。仕事でうまくいかなかったことや、彼女との言い争いなどを洗い流してくれたからだ。気分が軽くなったところで、カメラを構えると、野良犬が一匹通り過ぎた。
記念すべき生まれてはじめての連載記事の初回目、印刷できた日本カメラ2006年4月号を受け取りに、日本カメラ社を訪問して、ページを見た時の感激を生涯忘れることはできない。出来立ての誌面からのインクのにおいも感じた記憶が鮮明にある。その日、帰路をどうしたのか?残念ながら覚えていないが、当時帰路に立ち寄ることが多かった高田馬場のギャラリーバーを立寄ったに違いない。なぜならば当時は独身だったので、ほぼまっすぐ帰宅することはなかったからだ。
さて銚子の初訪問のことを振り返ってみることにする。夕方の時間帯になって、帰路に着く前に、野犬の群れが現れた。別段吠えられたわけではないが、気持ちが良いものではなかった。この銚子の地は、犬吠埼、犬若と犬の地名が多いこともあたまをよぎった。
時間を進めてみる。2010年5月に、印刷できた写真集を撮影で知り合いになった家族を訪問するため訪れた。その際に野良犬が居なくなっていることに気づいて、土地の人に聞いたところ、大規模な野犬狩りがこの間に行われたと聞いた。この写真はたった一匹で現れてくれたので、絵になった、しかも白い犬だったので、絵になった。偶然ではあるが、ありがたかった。土門拳が言う。鬼が手伝ってくれた写真の一枚だと思う。こんな写真が撮影できたことを神に感謝する。ちなみにこの作品は僕の写真集の表紙にも使っている。
そして2019年3月に再度訪問した。初訪問の際と同じく天気が良かった。桜が咲くにはまだ早い時期ではあったが、少し暖かい日だった。
連載7年目のバスマガジンには、まだ未掲載であるので、いずれ使いたいと思っている。思い出すと、また行ってみたくなる。わが青春を感じる場所の一つである。
ほとんどPRすることはなかったが、銚子の町の作品で個展を開催したことがある。2012年だった。バス停をモチーフにしなかった作品群である。これも懐かしい。
ところで、今回、2006年から2007年にかけて連載していた記事を再録したのは、わけがある。
昨年2021年5月号をもって日本カメラは休刊して、日本カメラ社も整理してこの世界から消滅した。あまりの突然のことだった。そのようなわけで、これまで1950年の創刊から70年以上にわたって日本の写真文化を支えてきた日本カメラを偲びたいと思った。今回はその連載記事の一回目を振り返ってみたわけである。
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余談だが、この作品を掲載するにあたって、地名を再度地図で確認して役所に電話して確認したところ、銚子市黒生町(くろはいちよう)との地名であることが判明した海鹿島町との境界でもあったのだった。